
Youtubeで見てくれる人からおすすめされて読んだ本。最初は途中で挫折したが、今日はなんとか読み切った。えらい。
昭和の本で、新品は販売されていない。
個人的な評価:☆☆☆
- むずかしさ:☆☆☆☆
- 共感度合い:☆☆☆
- 参考度合い:☆☆☆
- おもしろさ:☆☆☆
- 総合点:☆☆☆
昭和55年に書かれた本。昔の人は読書レベルが高かったのか、難しい言葉・表現も多く、なかなか読むのが大変だった。
それでも、呼吸法・丹田、姿勢、自我の同一性、見性など、おもしろそうなポイントを読むこともできる。楽しい本。
いろいろな本を読み、読書レベルが上がってからまた読みたい。
個人的に気になったポイント
気になったポイントをまとめる。座禅の本だが、座禅以外に日常に使えそうなところをメインに。座禅を習慣にできないかなあ?
呼吸法と丹田
「むーっ、むーっ、むーっ……」と波状に息を出してみて下さい。工夫というのは、その波状に呼気を出して行くところにあります。これをやると、雑念の起こるのがピタリと止まります。今まで悩まされ抜いて来た雑念が、何の苦もなく簡単に押えられるのです。
座禅の構造と実践 9Pより
これ実際にやってみるとかなりびっくりする。本当に雑念を消し飛ばすことができる。
この、「むーっ」と波状に息を出すことで、丹田(下腹部)に圧力がかかる。そうすると、横隔膜と腹筋がお互いを押しあう。この二つが押し合うパワーによって、雑念が吹き飛ばされるという理屈だ。
蚊に刺されて痒いとき、上から爪でバツ印をつけてみるのと同じ理屈だろうか? 雑念という痒さを、腹筋と横隔膜の緊張によって消し去るイメージだと解釈した。
座禅の本と聞いて、座り方や姿勢をメインに取り扱うのかな? と思っていた。もちろん姿勢の指示も多いのだが、呼吸法・丹田についてかなり多くの記載がある。
「座禅? 足の形をそろえればいいんじゃないの?」
と思っていたが、足の形はごくごくわずかの記載しかない。呼吸法、丹田の意識、上半身の脊椎のカーブなど、我流では考えが至らない情報が満載だった。座禅するならこれ買った方がいいと思う。
全く関係ないのだが、多くのビジネス書では、最初は「つかみ」から入る。自分はこれこれこういう身分を持っている、こうしたら自分は成功できた、これを読めばあなたの人生は変わる……など。いままでそういった本ばかり読んできた。権威付けしているのだ。
本書では、いきなりやり方だ。最初の章から、自己紹介もなにもなく、唐突に呼吸法の話が始まる。さっぱりしていて気持ちいい。
姿勢
次に「尻は後・腹は前」ということをします。それはウエストをぐんと前に押すと同時に、骨盤の上辺で、第五腰椎のあたりを後へ折りまげるようにして知りを後へ突き出すのです。尻だけを出します。体を前に傾けるのではありません。こうすると下腹部に、必然的に力がはいります。
座禅の構造と実践 17Pより
実際にやってみるとわかるのだが、これは、姿勢を脊椎のカーブに従わせるということだ。
令和の世の中を生きる私たちは、電車の椅子に座り、スマホを見ながら猫背になっていたり、椅子に寄りかかって、腰が寝ていたりする。
しかし、姿勢を脊椎のカーブに添わせる(あなたが人間であれば、脊椎はS字カーブを描いている)と、なんというか、しっくりくる。
今、椅子に座りながらこの「尻は後・腹は前」を実践しているのだが、上半身が軽く弓のように反り、骨盤の上にしっかりと乗っかるので、疲れづらい。
もちろん座禅で使う言葉だが、猫背がちな現代人にはかなりわかりやすい表現だと思う。
一般的な現代人がスマホを操作する際の姿勢

実際に自分の姿を写真にとってみるとわかるが、おもしろいほど猫背になっている。
「尻は後・腹は前」を実践した場合

上半身が骨盤の上にどっかりと乗り、非常に安定する。腕は疲れる。
スマホについて思ったこと
実際に自分でやってみて思ったのだが、スマホは人間の体にあってないのでは?
- 普通に使用する=猫背になる
- 姿勢よく使用する=腕が疲れる
腕が疲れるのは自覚しやすいが、猫背になった疲れは自覚しづらいので、みんな自然と猫背になっていく。
意識して背筋を伸ばさないと、健康をガシガシ持っていかれる機械なのかもしれない。スマートフォン。
自我の同一性について
自我の同一性と、自我の流転性とは抵触しない。何故なら、内圧自身が常に流転しているからです。子供の時に内に感じた内圧と、現在私が持つ内圧とは雲泥の懸隔があります。(中略)しかしこの内圧は日々確かめられ、刻々に保証されて一筋に続いてきたのです。同一のわれという温かさを続けてきたのです。
座禅の構造と実践 217Pより
最近の自分の悩みとして、今の自分の意志と未来の自分の意志が異なるというものがあった。例えば今、ブログを書きたい、本が読みたい、生放送がしたいなど、やりたいことがあって、それに取り組む。今日は専念できても、明日の自分がそれを専念してくれるか保証できない。明日の自分は今の自分と同一なのか? となんとなく考えていた。
では子どものころと今の自分は違うか? という問いかけを本書から受けた。いや、子どものころと今の自分は同じだ。考え方は違うが、つながっている。
であれば、たかだかやりたいことや趣味が変わった程度で、同一性を疑う必要はないという答えを得た。
ただ、自分の中の同一性と、他者からみた同一性は全く別の意味である。(記事・ブランド戦略へリンク)それは忘れないようにしたい。
見性
他己を直観することは、むつかしい認識論上の問題とされていますが、本当はちっとも難しくはありません。第一念はその生まれたときの始めから、他を認識する能力を持っていたのです。
座禅の構造と実践 124Pより
見性、座禅を続けることで、突然世界の見え方が変わる(悟りではない)という話。座禅を組み、雑念を払うことを続ける、ふとしたとき(トイレ、鼻をかむなど)に、気づくのが見性。
正直よく理解できなかったのだが、この見性、以前ネットで読んだ、論理的思考の放棄にかなり近い印象があった。
だが、人間の感覚的思考機能の上でエミュレーションされた論理的処理機能は、所詮エミュレータ上のようなものなので、実マシン (人間本体) と比較すると、とても処理が遅い。オーバーヘッドが大きすぎるのである。あらゆる方式の処理を瞬時に同時実行することができる人間の頭脳がせっかくあるのに、論理的処理用の仮想環境を脳の中で構築し、その上で物事を考えるから、効率が悪くなる。
論理的思考の放棄の中では、
- 人間はもともと「感覚的思考」を持っている
- 論理的思考は、感覚的思考が得意な脳の上でエミュレータを走らせて動かすもので、処理が遅い
と語られている。
座禅をすることによって、雑念(論理的思考)を払い、人間の持つ感覚的思考に近づいた結果、見性、なにかに気づけるのではないか? と思った。
読書メモ
おわりに
ポイントには座禅以外のことを書いたが、この本は座禅の知識が満載である。実際に座禅を組むときは、この本の基本を忘れず試したい。
読んでおいてなんだが、今は座禅という気分じゃないのだ。難儀なものである。
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